初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ、本名:花田 勝治(はなだ かつじ)、1928年(昭和3年)3月16日 - )は、大相撲の力士。第45代横綱。所属は入門当時は二所ノ関部屋、1953年に花籠部屋の独立とともに移籍。青森県弘前市青女子(あおなご)出身。身長179cm、体重103kg。血液型はB型。弘前市名誉市民。土俵の鬼と呼ばれた。
引退後二子山部屋を創設し、弟である大関・初代貴ノ花、横綱・2代若乃花(現:間垣親方)、横綱・隆の里(現:鳴戸親方)、大関・若嶋津(現:松ヶ根親方)を育て、日本相撲協会の理事長もつとめた。 第65代横綱・貴乃花、第66代横綱・3代若乃花は甥にあたる。 愛人関係にあった韓国人女性との間の息子が藤島部屋に入門したが、幕下止まりで1997年に廃業している。
誕生から横綱昇進まで [編集]
青森の林檎園農家の長男として生れた。1934年の室戸台風のため作物が全滅、北海道室蘭に移住した。沖仲仕などの仕事で家計をささえていたが、1946年二所ノ関一門の巡業で催された相撲大会に飛び入りで参加、本職の力士を数名倒してみせた。このことが大ノ海(のちの師匠・花籠)の目に留まり、働き手を失いたくない父親の反対を押し切って入門。条件は「3年で関取になれなければ帰る」というものだったという。
「若ノ花」の四股名は大ノ海の若いときの名を譲られたもの。このため後年、「若ノ花・若乃花は全部で何人か」という問題が取りざたされた。もちろん、彼を初代とする数え方が一般的ではあるが、自身は「師匠が初代、自分は二代目」と数えていたらしい。
入門後は「二所一門の猛稽古」によって力をつけた。最も彼をしごいたのは後にプロレス入りする力道山で、これは成績不振に陥った場所後に景気付けに兄弟子と蕎麦を食べに行こうとしたところを力道山に見つかり、夜逃げと勘違いされて目をつけられたからであるという。ある時、あまりの猛稽古で土俵に這ったまま立てなくなったが、それでも容赦がなく、このままでは殺されると力道山の脛にかみつき、廻し姿のまま部屋から脱走して近くの隅田川に飛び込んだという逸話がある。一説には、のちのプロレスラー力道山のトレードマークである黒タイツは、この時の古傷を隠すためだったともいう。本人も力道山からの援助・教えは身にしみたと述懐している。
後に大関となる琴ヶ濱との稽古も凄まじいものだったという。当時は高砂と二所ノ関で合同の巡業を打つことが多かったので、東富士にも可愛がられた。鏡里もまた若乃花によく稽古をつけていた。
入門当時は敗戦直後の混乱の中で相撲人気が大きく衰えた時期であり、相撲協会は旧両国国技館をGHQに接収され興行も各地を転々として行われた。1947年6月場所は明治神宮外苑で行われたが、そのとき隣の明治神宮野球場で開催された学生野球の方に客が集まるのを見て以来、「野球は商売敵」と言って、頑として野球はやらなかったという。
ドタキャン ターム みゅすか オプテ オースト ヌクレ バコマ ソプラ シャン ライナ オオボ チョン ネコン ブロス ロード おおだま バリア チャーム ヤブコウジ シアター 風模様 フェニック ジェット サーチ群青 トウバ マルア コンバレー サンベ ジャンパ アパチャー フィジカ キュリー スカンジ シガー タワナ マンガ グーイ デュオ トリレ ラジアン ピーチ パール チーム ビースト オシロ エリトリア トラッ トデー 樹やしき リュウノヒゲ
1946年11月場所の初土俵から各段優勝に近い成績で、1949年5月場所には十両に昇進。家族と約束した3年より約半年早かった。
関取昇進を祝って弟弟子たちと夜通し祝杯をあげていて、金が足りなくなりあわてて東富士に金の無心をした。東富士としては、上述の通り可愛がっていた相手であり、すぐに金を出してやって店の方とはそれですんだが、後で相撲協会の側で「新十両の分際で横綱に借金を申し込むとは」と問題視された。中には除名まで主張する意見もあったが、羽黒山のとりなしもあってすくわれた。「あの2人(東富士と羽黒山)には脚を向けて寝られません」と後々まで語っていたが、やがて入幕してこの恩人2人から金星を奪い恩を返している。
下半身の強さ、特に膝のバネに独特のものがあり、「異能力士」とあだ名された。脚の筋肉の付き方は見事であり、これは室蘭時代の舟板の上での労役によるところが大きいとされる。その必殺技として名高い「呼び戻し」を実際に食った体験者である鳴門海などが、「腕力でなく、下半身からの力で投げ捨てられる感じ」と証言している。
この「異能力士」の他に、若き日は「オオカミ」のあだ名があった。のちに「ウルフ」のあだ名を持つ千代の富士が出世する際にこのあだ名がクローズアップされた。角界には“動物のあだ名がつくと出世する”という言い伝えがあるが、若ノ花はその言い伝えを証明するかのように番付を上げていった。
1953年、師匠の大ノ海が引退とともに二所ノ関部屋から独立し、花籠部屋(独立当初は芝田山部屋)を創設するとそれに従うが、当初は小部屋ゆえの苦労が絶えなかった。巡業も引き受け先が見つからず、辺鄙な土地に出かけて部屋の若い衆相手に胸を貸す稽古を延々と続けたという。
1955年9月場所、西関脇で10勝4敗1分。この1引分は横綱千代の山と水入り取り直しの計17分15秒に及ぶ前代未聞の大相撲の末だった。この相撲を評価され場所後松登とともに大関に昇進する。昇進前3場所の通算勝ち星は28勝(引分が2回あるので事実上29に等しいが)なので、現在の基準で言えば甘い昇進だったことになる。当人も大関になれるとは思いもよらず、番付編成会議の朝、家族とともに旅行に出かけようとしたところを、新聞記者にあわてて呼び止められたという逸話が残る。しかし、新大関の1956年1月場所は他の2大関が負け越す中優勝した鏡里に1勝差の13勝、大関推挙が失敗ではなかったことを自ら証明してみせた(ちなみに同時に大関に昇進した松登は後に3場所連続負け越しで大関を陥落することになるが、大関陥落決定となる黒星をつけたのは若乃花である)。
翌場所も12勝で優勝決定戦出場(優勝は関脇朝汐)、次の5月場所12勝3敗で大晃との決定戦を制して初優勝、翌9月場所に横綱をかけたが、場所前長男がちゃんこ鍋をかぶって火傷で亡くなるという悲運に見舞われる。
稽古どころではなく本場所出場も危ぶまれたが出場を強行、愛児の名を記した数珠をさげて場所入りし、支度部屋でほとんど一言も発しないその姿は鬼気迫るものであった。水入りの苦戦を強いられることの多かった出羽錦をあっという間に寄り切るなど初日から12連勝、連続優勝と横綱は確実、あるいは全勝優勝なるかと思われたが、扁桃腺炎を発症、高熱に襲われ13日目を休場、千秋楽には出場の意欲を見せ栃錦と割が組まれたが当日病状が悪化してやむなく休み不戦敗、結局12勝2敗1休(2敗はいずれも不戦敗[1])に終わる。綱取りは夢と消えたが、皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として若ノ花の人気をさらに高めた。翌1957年には日活が映画『若ノ花物語・土俵の鬼』を制作、若ノ花自身も出演した。
同年9月場所より「若乃花」に改名。画数占いですすめてくれる人があったのと、愛児の一周忌を機に心機一転をはかるためと言われている。
1957年11月場所は12勝3敗の優勝次点で、翌1958年1月場所は13勝2敗で優勝。場所後45代横綱に推挙される。丁度昇進場所となる1月に「2場所連続優勝、もしくはそれに順ずる成績」という横綱昇進の内規を制定した横綱審議委員会の一部委員からは反対も出たが、相撲協会がこれを押し切った形だった。昭和生まれで最初の横綱である。
横綱が衰えれば引退より他に道はないため、自分が養う家族のことを考え推挙は受けるかどうかかなり悩んだという。結局受けることにしたが問題があった。横綱は三ツ揃えの化粧廻しが揃うまでは一門の先輩横綱から借りるのが通例だが玉錦以来実に20年ぶりの横綱、しかも玉錦の廻しは空襲で焼けたのか使えない。さらに困ったことに土俵入りを指導する先輩横綱も一門にはいなかった。困っていた若乃花を助けたのは理事長の時津風とその弟子鏡里だった。事情を知った時津風は土俵入りの指導を引き受け三ツ揃えの廻しも唯一焼けずに完全な形で残っていたものを貸し出してくれた。